「観察しない」はできなかった。それが私の自然だった。

2026年03月14日 20:00

【投稿 : いな 】

ある記事の一節に、
「とらわれても問題にしない」
「心を観察しない」
「心を覗かない」
「心を完全に放置する」
などの表現がありました。

これに対して、ある方が、

『これらはもっともらしく聞こえますが、実は不可能なことを言っているのではないでしょうか。

なぜなら、心は「自然現象」であり、
・問題にしないことは出来ない
・観察しないことは出来ない
・覗かないことは出来ない
・放置することは出来ない
どうにもならないものだからです。
自然には服従するしかありません 』と、

ここで私は、“はっ”としたのです。
私はこれらの言葉を聞いたとき、「心を観察しない」と言われても出来ないのです。そして出来ない自分を瞬時に裁き、さらに苦しくしてしまう。その流れこそが、長年の癖だったことに気づきました。

少し整理してみます。

①「心を観察しない」➡「出来ない」➡「自己否定に苦しむ」ところが、お話を聞いた瞬間、気づきました。観察しないと“思った”その瞬間、すでに観察している自分がいる。観察してしまうこと自体が、自然なのだ、と。

②「心を観察しない」➡「観察してしまう」➡「それが私の自然」そう思えたとき、不思議と葛藤が和らぎました。もちろん、実際には流れるときもあれば、流れないときもあります。

私の場合、「また寝坊した」「あの時やっておけばよかった」そんな自己否定の流れを、何度も繰り返してきました。けれども一度立ち止まり、すでに観察している自分に気づくこと。そして、それが自然なのだと思えたこと。それが、今回の私の体験です。


前のページ
サポートランナー
一覧へ
次のページ
記事はありません
記事一覧を見る

powered by crayon(クレヨン)